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唐津城天守閣からの眺め [旅・場所]

唐津城内
唐津城の場内は大半が撮影禁止。
禁止されているものを写すわけにはいかないので、問題ないアングルで一枚だけ撮影。
ここは前の記事に書いた、寺沢家亡き後に藩主となった譜代大名たち5家の説明がされている。
大久保家、松平家、土井家、水野家、小笠原家についての記述がある。

水野家の書かれ方が唐津の人に嫌われているのだろうと思われるような容赦のない書かれ方だなと思って帰ってから調べてみた。
事実がひどかったようだ。
水野家が土井家の転封に伴って移封され、水野忠任が着任する。
水野忠任は農民への増税を打ち出すが、それに怒った農民たちが虹の松原一揆を起こす。農民たちは無血で増税撤回を成功させる。その後面目を潰された水野家によって厳しい農民への取り調べが続けられ、指導者たち複数名が自ら首を差し出すことで決着をする。水野家は譜代大名、寺沢家は外様大名だったことや、大きな騒乱とまでは言えなかったからだろうが、島原の乱のときの寺沢家とは異なり、幕府からお咎めなしだった。
その4代後の水野忠邦がこれまたひどい。
唐津藩主は長崎見廻役という役目を幕府から任されていて、見廻役に専念する必要性から老中には就任できない決まりがあった。出世意欲にまみれた水野忠邦は家臣の諫言を押し切って10万石以上も少ない浜松藩への転封を自ら願い出て実現させ、幕閣になるための道を切り開く。この際、唐津藩から一部幕府領に召し上げられた地域が存在し、地元民から見ると国替え工作のために賄賂としてそれが使われたのではないかという疑念があり、その幕府領の年貢の取立てが厳しかったことから、後年まで恨まれ続けている。
国替え顛末の際には、水野家家老の二本松義廉が忠邦に対して諌死をしている。
その後、水野忠邦は賄賂を積極的に活用し、幕閣へと成り上がっていく。
そして教科書にも載っている天保の改革を始めるが、上手くいかず、結局失敗し、最終的には仕事もせず木偶の坊と陰口を叩かれた。
どうやら人の心が分からず、部下にも周囲にも好かれず、独善的で上昇志向が強く、賄賂を活用しながら改革では奢侈禁止・風俗粛正をうたう。うん、どうしようもないね。教科書で水野忠邦を改革者として取り上げるなら、その顛末とセットで反面教師として教えたほうがよほど役に立つと思う。

さて、唐津城からの眺めはなかなかよかった。
唐津城からの眺め
北側。唐津湾だ。

唐津城からの眺め
東側。この写真だとわかりづらいが、真ん中から左側に湾曲するあたりにある松林が、虹の松原と呼ばれる有名な場所。

唐津城からの眺め
南側。松浦川があるせいもあるが、唐津城周囲は水が多い。攻めにくい城だと思う。

唐津城からの眺め
西側。泊まった旅館が見える。

唐津城を観光した後は駐車場に戻って次の場所へ。
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